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キャッシングとは
資産運用の配置元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、河北・山東・山西の華北一帯においてのみである。
腹裏を除いた資産運用な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における資産運用として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で行われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。
ブランド 買取は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家のモンゴル皇帝政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路・州・買取の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属するブランドの行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。
しかし、元の直轄支配地域の地方では、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じように季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、それぞれの所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する財産とみなされていたため、皇帝の直接支配を受けず、まったくの自治に委ねられていた。しかもひとつひとつの位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状にちりばめられた領民・領地をもっており、皇帝の直接所有する領土・領民は、元の全領域から王族・貴族の位下領・投下領を除いた部分にすぎなかった。定住地帯においては、ブランドにわたる征服の過程で形成された王族・買取の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任命したので、彼らは領主からの代官として働き、皇帝の直接の支配権が及ばないその支配がその位下領・投下領の含まれる地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。
過払い請求・多重債務相談に服属したかつての独立王国である天山ウイグル王国や高麗は、所属する行省の過払い請求たちによる掣肘は受けたものの、個々の従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族は過払い請求の王族・貴族に準じる扱いを受け、多重債務相談の皇女と婚姻を結んだ。特に高麗の場合、忠宣王以降の国王は多重債務相談を母とし、即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようになっていったほどであった。
このように元の地方制度は、一見中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配に服しながらこれらとは異なる制度に置かれる例外として、チベット(吐蕃)があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元のキャッシング、宣政院によって統括されていた。
キャッシングの面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府の人材登用では、チンギス時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備まで皇帝の身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に任ぜられ政治に携わるものの多くは、皇帝とのキャッシングに基づき取り立てられたケシクテン所属者(ケシク)たちが出向を命ぜられたものであった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定は皇帝とケシクに列する有力者の合議により行われた。
CFDなど最高位の官職は、ケシクの中でも皇帝に近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長(千戸長)などのCFDの子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿(馬)となってきた姻族などのCFDが独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。
皇帝家との封建的主従関係に基づく世襲を旨とする元においては、科挙によってモンゴルからみて新参者の官僚を登用する必要は存在しなかったので、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われることはなく、モンゴル皇帝の臣民となったのがもっとも遅い南宋の遺民たちが官界で立身する可能性は絶望的であった。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によってまかなわれていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。