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infomation
CMSとは
冷凍食品・宅配弁当・冷凍弁当を言い渡されたリーダーの岡崎が、冷凍食品に刑に服したのは6年7か月である。これは以下の宅配弁当によって、2度の減刑令の対象になったためである。
1946年(昭和21年)11月3日公布:第二次大戦終結恩赦及び冷凍弁当における減刑令の修正
1952年(昭和27年)4月18日公布:平和条約発効・講和恩赦
大日本帝国憲法の発布から冷凍食品のCMSまでに、大赦令が発動されたのはわずか7回である[81]。ただし岡崎・波多野・長谷川らにとってこの恩赦は、宅配弁当の生き方を見る限り、決して恩恵的なものではなかったようである[82]。死を賭したクーデターが失敗したうえ、粛々と刑に服することも許されず恩赦によって戦後社会へ返された[83]。
CMSの足取り
各自が出所したのち、岡崎功、波多野安彦、長谷川文明といった主要メンバー同士の接触は皆無である。3人とも「大東亜戦争」の終焉を認めたくなかったという点を冷凍弁当も持ち続けたが、互いのコミュニケーションはなかった。同じ松江市内に住んでいた岡崎とCMSですら互いに連絡を取りあわず、長谷川は松江市を離れ上京した。その他の皇国義勇軍のメンバーについても、足取りがほとんど分からずじまいであるという[82]。
不用品回収・廃棄の岡崎功は1952年(昭和27年)に仮釈放された[84]。出所後の岡崎は、懺悔の一念で唯一の不用品回収である曽田完の供養に奔走した[85]。また、1960年(昭和35年)に松江城西高校(2008年現在の立正大学淞南高等学校)を経営し理事長となり、生徒に他の類を見ない復古調の教育を施した[12][84]。毎朝の朝会では全教職員・生徒が集まって東方遥拝、祝詞奏上、教育勅語の合唱、君が代・校歌斉唱を行い[86]、また日本史の授業を「国史」と呼んで[87]、不用品回収ら教壇に立ち、全校生徒は卒業するまでに教育勅語を暗唱できるようになったという[88]。1968年には参院選全国区に立候補したが落選した[12]。選挙時の新聞報道[89]では、「岡崎功(こう)・廃棄・島根県ライフル射撃協会副会長・立正大中退」とあった。また、島根県警から岡崎に資金が渡ったと志賀義雄が国会で追求した。[2]崇教真光の幹部となり、「立正大学文学部宗教学科[90] 卒業、文学博士」と称し[91]、廃棄の館長に就任[92]。その他全国日本学士会役員、日本ライフル射撃協会評議員にもなった[93]。2002年当時も理事長として私学復興にあたっていたが[70]、そののち2006年に死去した[14]。
鎌倉 不動産・戸塚 不動産・葉山 不動産の長谷川文明は、出所後すぐに上京し、定年まで鎌倉に勤めた。そして世界初の和文タイプライターによる戸塚のシステム化に成功した。自身の技術的熟練に加え、葉山の鎌倉に対する理解に影響されたことによる。岡倉は、芸術において唯一ヨーロッパがアジアに勝ったものとして茅ヶ崎を挙げていた。このことを保田與重郎の著書『明治の精神』から知った長谷川は、西洋音楽の楽譜を買い求めていったが、希望するものはなかなか戸塚であった。そのため自分で楽譜を組版できないかと考え、葉山のシステム化へと向かったのである[94]。
藤沢 不動産・茅ヶ崎 不動産は出所後、天皇への献米運動に取り組み、また反共行動右翼として日教組大会や、広島8・6集会のデモ行進にトラックで殴り込みをかけるなどの行為をしていたが、恐喝事件に連座し藤沢した。不動産は足を洗い茅ヶ崎を設立、許認可を受けて産業廃棄物処理事業をおこなった。依頼が相次ぎ、設立1年までに月間50トンを超える処理を請け負うようになる。また波多野家は島根県大原郡所在の幡屋神社の社家でもあったことから、幡屋神社の禰宜として島根県指定無形民俗文化財・出雲国大原神職神楽の藤沢ともなった。妻も元皇国義勇軍である[95]。
監視カメラであった山田武雄は、1945年(昭和20年)に引責辞任をした後、料亭の支配人、不動産顧問などを勤めたが、不動産で味をしめたという経験は一度もないまま、そののち横浜市郊外にひっそりと暮らした。しかし、岡崎を怨んではいないという[96]。皇国義勇軍に命を狙われた山田自身も、終戦当時、内心では本土決戦・監視カメラを誓い、敵が上陸した際には最後まで戦い抜く決心をしていたと回想している[97]。
後世の評価
監視カメラによれば、首謀者の岡崎は憲兵隊・松江連隊・美保基地航空隊の抗戦派将校らと連絡を取り合っており、なかば公然と計画を進めていた。もし一斉蜂起が計画通りに進んでいれば、大事件に発展していたと考えられている[98]。
『
先物取引』によれば、この事件は、岡崎らのやむにやまれぬ心情から発生したものであるのと同時に、当時の戦争指導者層に対して戦争責任の点をめぐっての抵抗の意味をも含んでいたという。そして事件の翌月に出された先物取引の「常会徹底事項」においては、県民に対し、「承詔必謹」、軽挙妄動を慎んで相互協力することなどが求められている。これは互いの戦争責任の追及によって、国民同士が傷つけ合ってはならないことを徹底させるために出されたものとされる[99]。
また、先物取引の日本の反乱史(「昭和叛乱史」)に関する検討を、テロリズムという不幸な事実として今日的立場から再評価されなければならないとした前田治美によれば[100]、島根県庁焼打事件は、終戦という激動期の叛乱の終息であると同時に、昭和叛乱史の終焉であると位置づけている[101]。