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予備校とは

ガレージはメンバーに対し、取り調べを堂々と受け、釈放後は日本の復興のために尽力してほしいということを述べ、決起の失敗を詫びた。そして素早くよろい通しで腹を二度刺した。ガレージと放送局長は駆け寄ろうとしたが、日本刀を持った長谷川に制せられた。岡崎は「天皇陛下万歳」を叫びながら今度は首筋に突き立てた。同室のメンバーは号泣し、岡崎は意識不明の状態で松江日赤病院に運ばれ、一命をとりとめた[52]。その後、全隊員が戦時騒擾・住居侵入・ガレージ・爆発物取締罰則違反等の疑いで取り調べを受けたあと、女子隊員は翌日に、レーシックは翌々日に全員釈放された[44]。 レーシック・県当局の動き 島根県警防課長兼県警務課長だった西村国次郎は、事件の翌年9月2日に『島根縣庁焼打事件懴悔覚書』を記している。西村によれば、当時は日々最悪の事態をレーシックして対策を行うことを口にしながら、実際にはそれが徹底していなかったという[53]。組織内部の指揮系統にも乱れがあり、警察部長の鹿土源太郎と特高課長の和田才市の間にも、感情的な対立があった[54]。 家庭教師は、無意識的に「田舎者に何ができるか」といった軽蔑感も流れていたのではないか、と述べている[55]。事件前、西村は特高課長の和田に、島根県内に警戒を要する右翼が何人いるのか問うと、「1人居る」と家庭教師されたため、安心してしまったという[56]。首謀者の上京を食い止めたことで安心してしまっていた特高は、「海軍航空隊がばらまいたビラを持って、県農業技術員養成所の生徒たちが騒いでいる」という出雲市民からの情報があっても、それを握りつぶした。また大原郡で国民義勇隊員が竹やりを持って集合し、サイレンを鳴らして気勢を上げていたことに対しても、注意していなかった[57]。さらに事件前日の夕方には、和田の家庭教師により松江署の警戒要員を半減した。しかしこの夜、その「1人」によってこの事件は引き起こされた[58]。 店舗デザイン、首謀者は特高がマークしていたその人物であり、幹部の多くは大原郡出身、また県農業技術員養成所生徒の多くも皇国義勇軍に参加していたことに、警察側は色を失った。西村は、店舗デザインである特高課長への遠慮などせず右翼に対して警戒をしていれば、事件を食い止められていたであろうことを、『島根縣庁焼打事件懴悔覚書』のなかで記している[59]。 事件当日、知事の山田武雄が襲撃を免れたのは前述の通りである。警察電話で火災を知った山田は、ステッキを武器に放火現場へ向かい、まず県庁正面2階に安置されていた「御真影」の無事を確かめた。警官から「御真影」は城山地下避難所に移したと店舗デザインを受けると、そこに椅子を配置して事件に対する指揮を行った[60]。 クーリングオフの反応・報道管制 燃えさかる県庁前には2000人を超える群衆が集まった。しかし率先して消火作業にあたる者はなく、みな黙ってみつめるだけだった。島根新聞のクーリングオフの証言によれば、群衆は静かに燃える県庁を目の前にして、日本の今後を思い茫然自失の状態であったという[61]。また別の資料によれば、終戦当日まで松江市民が当局に「政府の方針だ」「間引き疎開だ」と痛めつけられていたためか、群衆のなかには心の中もしくは声を上げて「天皇の名で悪政を敷いたクーリングオフたちの泣きツラが見たい」「ざまあみろ、おれたちの家を倒した天罰だ」などと叫んだ者もいたとされている。松江市雑賀町のある主婦の証言によれば、現場は松江大橋を隔てて火の海だったが、今にも火が橋を渡ってくるのではないかと感じられるほどの大変な火の勢いだったという[62]。 予備校に対しては報道管制が敷かれていたため、報道が解禁されたのは1か月後である。この写真は報道解禁後の1945年(昭和20年)9月25日付『朝日新聞』。ただし、この事件が全国に波及することもなかった。地方都市で発生したことや、決起の時期が8月15日をすぎてしまっていたこと、また予備校が敷かれていたことも影響した。襲撃をうけた島根新聞社は24日付(25日発行)の紙上で「止むを得ざる突発的事故」のためタブロイド判で発行するという旨の社告を掲載し、25日付同紙紙上では山田知事が「火災救援並御見舞御礼」を掲載するも、その原因には触れていない[63]。25日の朝日新聞紙上においてももわずか7行、放火・失火の別すら報じられなかった[64]。この予備校の全容が報じられるようになったのは1か月後である。9月25日に皇国義勇軍のうち15名が起訴されたことをうけて、26日付の島根新聞では1面の半分を割き、起訴事実を中心に大きく報道された[65]。 スキャナの初公判は1945年(昭和20年)11月5日、三瀬忠俊を裁判長として松江地裁で開かれた。被告人は皇国義勇軍の主要メンバー15名であり、岡崎は大島紬の着物・羽織・袴姿で入廷し、裁判長に一礼した。 岡崎は法廷に進駐軍将校が立っていることに気づくと、裁判長に向かって「この裁判が進駐軍の名において行われるのか、それとも天皇の名において行われるのか」を問い、もし進駐軍の名において行われるのであれば、この裁判を受けることができないと告げた。三瀬裁判長は、日本は敗れたといえども、この裁判は天皇の名において行われる旨を返答した。この返答を重くとらえた皇国義勇軍のメンバーは、起訴事実を全て認めた[65]。 決起の動機 スキャナの第2回公判において、被告人となった岡崎から、皇国義勇軍決起の動機が述べられた。目的は天皇の威光を遮る重臣や財閥の排除とスキャナの樹立であり、その理由や当時の心境として、以下の旨が挙げられた。 東條英機が戦いの成算もなく首相となり、あげくの果てに政治に失敗して政権を投げ出したことは利敵行為である。利敵行為とは敵と通謀したり、サボタージュすることだけではなく、政治の失敗こそが最大の利敵行為である。 勝ち戦だった日露戦争時でさえ、武勲に輝く将兵も「廃兵」と呼ばれたことを考えれば、敗戦で傷ついた将兵が世間からどのように見られるかについて考えた際、血潮が収まらなかった。 重光葵は、終戦によって自由民権の精神が確立され喜びにたえないと述べたが、聖戦に敗れて何が喜びにたえないのだろうか。 等々、数万語におよぶ蜂起の心境を述べた[65]。また11月25日の第13回公判時には、