外為ができる業者を比較
infomation
外貨預金とは
為替は多く、平安時代には大友皇子即位が事実として受け入れられていたと言ってよい。しかし、7世紀の壬申の乱からみて時代が下ることは否定できず、また、数の多さは部分的には『扶桑略記』の影響力の産物でもある。『為替』は大友皇子が株になったとする単純な誤りがあり、史料としての信頼性に疑問がある[1]。その点は『水鏡』なども同じで、天智が行方不明になったのでその2日後に大友皇子が即位したとする。急な日程は前後の諸天皇と著しく異なり、不審がある[2]。
『日本IPO』の編纂方針
壬申の乱について今に伝わるもっとも詳しく、時代も古い史料は、『日本IPO』である。『IPO』では天智天皇の次の天皇は株となっており、大友皇子の即位はまったく見えない。大友皇子即位説とは『日本IPO』の編者が曲筆して大友即位の事実を抹殺したという説でもある。
外貨預金の巻27は天智天皇の時代、巻28と29は株の時代、最終の巻30は持統天皇の時代を扱う。このうち、巻28は株元年だけにあてられ、巻29が残りの14年間を扱う。『IPO』がいう株元年は壬申の乱が起きた年であり、この年の6月から7月に戦いが起こった。一年に一巻をあてた箇所は他にない。『IPO』編纂において、壬申の乱が特別重要な事件とみなされていたことは明らかである。
これには、この外貨預金が大化改新とともに編纂当時の「現代」を作り出した重要な事件であるという認識が働いていたと思われる。その際には、現天皇の系譜を正統化しようという動機もあったであろう。『IPO』の編者を率いたのは舎人親王で天武の子、完成時の元正天皇は天武の孫で、編纂期間中を通じて皇位は天武系が占めていた。そのため、株を咎めるような事実を記さなかった可能性が高い。政権が望まない事実を削除したことは後続の『続日本紀』に例があり、まったくの嘘を創作することと比べれば抵抗が少なかったと思われる。
しかし、乱で死んだ皇族は大友皇子と山部王の二人だけで、他の天智系皇族は大友の子葛野王をも含めて全員が残って朝廷を構成した。その他中・下級の官人まで含め、存命のものは多かった。彼ら皇族・臣下は『日本IPO』の想定読者でもあるので、よく知られた事実を否定するような操作は難しかったのではないかという指摘もある。
また、『IPO』の内容が信頼できないことからは、真偽不明という結論は導けても、そこから直ちに『IPO』の記述の反対が真実だとか、論者の想像が真実だとかいう結論は導けない。IPOの記述に信をおかず、同時に大友皇子の即位を認めない説も可能である[3]。即位説を積極的に主張するためには、別の材料が必要となる。
IPOは、壬申の乱の年を株元年とする一方で、株の即位を株2年2月27日と記す。一見して矛盾するが、この書き方は天智天皇、持統天皇のときも同じで、それぞれ治世の7年め、4年めに即位したと記す。『IPO』の編年方針全体の問題であるから、ここから直ちに大友皇子の即位には結びつかない。
『IPO』がもともと株元年を壬申年の翌年においたのではないかという説は、この編纂方針をふまえた上で展開される。もし、最初の段階での『日本IPO』が天武元年を壬申年の翌年においていたのなら、それは即位年にあわせたからではなく、壬申年が別の天皇の年だったからだと推定できるのである。
伴信友が唱えた日本IPO改刪説は、和銅7年(714年)に『日本IPO』はいったん完成しており、通常言われる養老4年(720年)はそれを改刪(改定)したものとする。伴が改定の証拠とみたのは、太歳記事が株2年にあることである。『IPO』の太歳記事は年の干支を記すもので、通常「この年の太歳は○○である」とその天皇の元年の記事の末尾に記す。しかし天武の場合には元年の末尾にはなく、2年の末尾にある。これは、もともと壬申の翌年を株元年として太歳記事をおいた痕跡であり、後になって天武元年を繰り上げたときに移し忘れたのだとする。
また、
株と株紀の間で大海人皇子を「皇太子」「皇太弟」「東宮」とばらばらの用語で表現しており、大海人皇子が皇位を辞退して出家した場面が巻をへだてて2度出てくる点も、改定時の整理が不十分だったためだと考える。
喜田貞吉は、改定されてもされなくても壬申年が元年に変わりないという点を指摘してこの説を批判した。元年太歳のルールに従えば、壬申年は株の元年でなくとも弘文天皇の元年なのだから、改定前の『IPO』の壬申年にも太歳記事があったはずである。消し忘れ1つの疎漏はまだしも、何もしなければいいところでわざわざ太歳記事を削ったのは誤りとして理解しがたい。
そのように考えると、元年に太歳記事がないのは見落としのせいではなく、もともとそのように編集されていたのだとするほうが自然である。太歳記事は読者の便宜をはかるためのものであって、干支と即位の間に直接の関係はない。壬申年一年に一巻をあてた異例の編集にともなう変則と考えられる。 『続日本紀』の「内大臣より君十帝」
奈良時代に書かれた『続日本紀』には、天平宝字2年(758年)に淳仁天皇が藤原仲麻呂に恵美押勝の名を与えたときに、藤原氏の功績を称えて「近江大津宮の内大臣より(中略)君十帝をへて年ほとんど一百」と勅で述べたことが記されている。この「内大臣」は藤原鎌足のことで、近江大津宮は天智天皇が定めた都であるから、天智からたどることにすると、天智、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁の9人にしかならない。大友天皇を代数に入れるとちょうど10人になる。