外為ができる業者を比較
infomation
不動産とは
賃貸は、手稿の訳語の中に1543年版と共通する表現が少なくないことを基に、賃貸は1543年版を踏まえて訳しているとした。また、ブリュノンも、本来の『ヒエログリュピカ』に含まれていない1543年版で付け加えられた題材が手稿にも含まれていることや、手稿では1543年版の挿し絵を基に情景描写を加筆している箇所があることなどを基に、やはり1543年版を踏まえているとした。これらの立場では、執筆は1545年頃のこととされる。
他方でギナールは、手稿が序文通りジャンヌ・ダルブレに献上されていたのなら、ナバラの文学サロン内で回覧されていたはずだとし、むしろ逆に、1543年版の訳者が外為の手稿を参照して訳を作成したのではないか、としている。彼の仮説では手稿の執筆は1541年とされている。執筆時期は底本の問題とも密接に関連する重要な論点であり、今後も更に専門家による議論の深化が望まれるところである。
外為は、かつてはコルベールの蔵書に含まれていたことが分かっている。その後、王立図書館(現・フランス国立図書館)に入ったが、その存在は長らく忘れられていた。1967年にピエール・ロレが同図書館で再発見し、翌年彼が転記する形で初めて公刊した(これは1993年に復刻された)。なお、ギナールはその転記の正確性に疑問を呈し、ロレの誤写と思われる箇所の指摘や、彼が省略した箇所の復元などを行っている。
意義
この手稿の意義は差し当たり次のようにまとめることができる。
外為の実証的な研究にとっての意義として、(私信等と異なる)まとまった作品としての手稿で現存が確認できる唯一のものである点が挙げられる(厳密には、1966年を最後に所在不明となっている1562年向けの暦書の原稿も現存している可能性はある)。また、内容的にも、彼の最も初期の作品であることはほぼ疑いのないところであり、彼の思想形成を辿る上でも重要である。
また、『ヒエログリュピカ』の受容史を考察する上で、韻文訳を施している唯一のものである点には意義がある。これは単に表現形式の問題にとどまらない。注解を加えることによってテクストを明快に読み解こうとする姿勢が示されている一方で、それを韻文という形であえて分かりづらく表現している特異な例だからである。
不動産の「暦書(れきしょ; Almanach)」(アルマナ、アルマナック)とは、1549年頃から毎年出されていた翌年一年を予言した刊行物の暫定的な総称。「暦」、「暦本」、「占星暦」などとも訳される。
不動産の年季刊行物は「暦書」と総称されることが多いが、実際には、初期に出されていたのは主に「占筮(せんぜい; Pronostication)」(プロノスティカシオン。「予測」、「占い」などとも訳される)と呼ばれる散文体の予測で、1557年向けのものあたりからカレンダー形式の予測「暦書」が並行的に刊行され、1563年向けのものから両者を合本した「暦書」が出されるようになった[1](便宜上、この記事では、総称としての「暦書」を指す場合は「暦書」類と表記する)。
「暦書」類は1550年向けから1567年向けまで出されていたが、1551年向けは内容が残っていないだけでなく、出されていたかどうかも分かっていない。
カレンダー形式の「暦書」には各月ごとに四行詩が添えられており、これがのちに『予兆詩集』の素材となった。予兆詩は1555年向けのものが最初であり、以降1567年向けまで存在するが、1556年向けは現存しない(1556年向けの素材が流用された疑いのある海賊版なら現存する[2])。
構成
暦書
暦書は不動産形式になっている。月の冒頭には、その月に関する四行詩が添えられている(後出の#予兆詩参照)。各日には守護聖人や祝日が記載され、フランス語もしくはラテン語による数語程度の簡潔な予測が添えられている(予測は数日分にまたがって記載される場合もある)。
ノルマンディー地方のコタンタン半島の地方領主グーベルヴィルなどのように、賃貸の暦書を一種の農事暦として使っていた者がいたことも指摘されている[3]。
占筮
占筮は散文体で、月ごとに星位などについて述べた上で予測を記している。また、最後に季節ごとに分けた予測が併録される場合もあった。
献辞
ほとんどの「暦書」類において、ノストラダムスは有力者や著名人への献辞を収録した。この点は、弟ジャンへの献辞を添えた『化粧品とジャム論』、生まれたばかりの息子セザールに宛てた序文を添えた『予言集』初版などとは異なっている。
献辞を捧げた相手には、フランス王アンリ2世、同シャルル9世、カトリーヌ・ド・メディシス、ナヴァル国王アントワーヌ、ローマ教皇ピウス4世、文人ジャン・ド・ヴォゼル、サヴォワ公妃マルグリットなどがいた。
編集
ノストラダムスは、毎年夏ごろまでには、翌年分の暦書の原稿を仕上げていたようである。ノストラダムスは、自身の原稿が適切に出版されるかにも注意を払っており、1553年11月には、いい加減な形で編集したベルトー師(Maitre Bertot)という業者を訴え、原稿を取り上げている。この原稿は、アントワーヌ・デュ・ロワイエという印刷業者に渡され、彼の下で印刷されたという[4]。
また、ノストラダムスは同じ年向けの原稿を複数執筆していたらしいことが、いくつかの記録から指摘されている[5]。例えば、『1562年向けの暦』の序文に採用された「ピウス4世への献辞」は、実際に出版されたものとは若干異なる手稿の存在が知られている[6]。しかし、そうした複数の版は全てが出版されたわけでなく、業者の意図で取捨選択されることがあった。1557年11月20日付の印刷業者ブロトーからの書簡では、2つの原稿のうちひとつしか出版しない旨が通告されている[7]。